きまりやルールについて考える ☆
私たちは、様々な決まりやルール、法律の下で円滑な生活を送っています。もしも、このようなものがなかったら、私たちの生活はとてもギクシャクしたものとなっていることでしょう。
昔々、人間の数がとても少なかった頃、私たちは自由に生きていました。誰に遠慮することなく自然の恵みを手に入れ、生きていました。
だんだん人間の数が増えてくると、衝突が起こるようになってきました。それらを回避するために、様々な規則や法律が作られてきました。車の数が少なかったころは信号も速度制限も必要ありませんでした。
ところが、現代のようにたくさんの車が走るようになると、通行帯や信号などで車をスムースに流す仕組みを作らないと、みんなが快適に車を使った生活ができなくなってしまいました。規則は、そのような意味では、必要悪といえるかもしれません。なければ、自由に行動できるのですが、自分も含めて皆が快適に円満に生活していくためには、それぞれが少しずつ譲り合うことが必要となります。
そのような、本当のルールや規則の意味を知るところから子ども達の教育は始まります。やみくもに押し付けるのではなく、なぜそうしなければいけないのか、なぜそのようであったほうが良いのかということを、子ども達が実感しながら理解していくプロセスが大切になります。
園では、年長になると標識探検に出かけます。私たちの身のまわりにあるたくさんのルールを示す標識があることを街に出て体感します。それは、標識の一つ一つの意味を覚えるというのではなく、まず、この社会がいろんなルールを守ることによって秩序正しく平和が守られているということを実感するためです。
このような意味から、子ども達は園の中で自分たちがどのようであったらよいかを考えます。それは、子ども自身が楽しく幼稚園生活を送るためにどうすればよいかという観点で考えられるものですから、自分たちで考えた決まりはきちんと守るようになっていきます。
なかにはそのようなルールを忘れてしまう子もいますが、友だちから教えられて「あっ、そうだった」と気づき、守れるようになります。大人から押し付けられたルールではなくて、自分たちのためのルールですから、当然のように守ります。
教育のすべてにおいて、このようなプロセスが大切であると考えます。文字の読み書きをする前に、豊かな言語環境があり、言葉を介していろんな人と思いを交換することの楽しさや共感し響きあうことのすばらしさ感じるからこそ、よりよく言語を習得したいという思いも湧いてきます。
ものを分けたり、人にあげたりもらったりするために数が数えられると便利であるということ、etc.
幼児期の教育が小学校へ入る前の準備段階である本当の意味を理解し、保育を展開していきたいものですね。時間と手間はかかりますが、きちんとやれば、子ども達はきちんと育ちます。自分で感じ、自分で考え、自分で行動し、その結果については自分が責任を持つ。真に自律した人間に育つための基礎は、幼児期にかかっているといっても過言ではないでしょう。
子ども達が自分たちで考えたルールを標識にし、あちらこちらに張り出しました。さまざまなルールを子ども達は考え出しました。外に行くときは帽子をかぶったほうが頭が熱くならなくて良い。あいさつが大きな声で元気良くできると気持ちが良い。はだしで歩くと何かを踏んでケガをすることもあるので、きちんとシューズをはいたほうがよい。また、ローかを走っていて友だちとぶつかったことのある経験から、走らないほうが良い。みんなで、アサガオを育てています。忘れないように水をやろう。けんかをしたり、嫌なことを言われて気分が落ち込んだことのある経験から、優しくしてあげられるといいな。遊んだ後は、みんなでお方付けをすると早い。朝の会のときに、元気良く歌ったり、大きな声で挨拶すると気持ちよい。どれもこれも、稚拙な標識です。でもね、みなさん。一つ一つに心がこもっていますよね。子ども達の気持ちが伝わってきます。今までの園生活の中で経験した中から、こうあって欲しい、みんなでこうしようよ、という子ども達の気持ちが見て取れます。
それは、子ども達は幼稚園が楽しいし、お友だちが大好きだからですね。理屈で教え込むのではなく、まずは感じることが大切です。そしてそこから考える。考えるといっても理屈ではなくて、感覚的にイメージ的に考えることが必要ですね。
幼児教育の要諦は「あそび」であるといわれています。それは、大人が想像する享楽的で、時間等の浪費的行動ではなくて、人や物と関わり、積極的に自分の力を試し成長させていくプロセスなのです。
規則やルールについても、こうすべきということを教える前に感じ育てておくものがたくさんあり、それらをしっかりと育てることができれば、後はそう目くじらを立てなくてもきちんと生活できる力は身についていきますね。