子どもの気持ち

 昨日、車を運転しているときにラジオを聴いていて考えさせられましたので、皆様にもお伝えしようとキーボードに向かいました。それは、「兵頭ゆき」さんの番組でしたが、次のような内容でした。
 中学と高校の女子生徒2人をゲストに迎え、親子のコミュニケーションについて話が進んでいました。親子の間で、よく話し合っていけば、いろんなことがうまくゆくけど、でもやらされている面もあるというとき、兵頭氏が、はたと、「そういやぁ、この前、家の息子(小3)が、結局は、お母さんの思い通りになるんだものね、と言って泣いた」という話を持ち出しました。大人と小3じゃあ、ボキャブラリーも違うし、対等に話しているようで、大人の言いなりにしてしまっているところもあるかなぁ、と反省してみえました。
 運転中に聞いていたことなので、多少誤りがあるかもしれませんが、内容的には大人と子どもの関係をとても考えさせられるものでした。
 子どもの話を良く聞いて、話し合っていろんな物事を決めていると言っても、よく検証してみると、大人の押し付けになっていることがあることに気がつきます。


ここで問題です。大人の押し付けが悪いと言うわけではありません。大人が押し付けたことがうまくゆくこともあります。ただ、うまくゆけば良いのか、あるいはうまくゆくかどうかは別として、自分で考えて実行し、その結果に責任を持つという自立的な行動を良しとするのかで判断の分かれるところではあります。
 ただ、大人がきちんと論理的に子どもに伝え、子どもが分かったというとき、本当に子どもが分かったのかどうか、大人の思いが通じて心から納得したのかどうかという問題は残っています。分かったって言ったんだから分かったでいいじゃないかとも言えますが、本当に子どもがそれを理解するだけの語彙力、大人の思いを察するだけの、言葉から思いを読み取るイメージ力が育っていたのかどうかという問題は残ることでしょう。
 では、なぜ子どもは分かったと言ってしまったのか?そう、まさしく言ってしまうのです。それは、大人の説明をしっかりと考え理解した論理的なやりとりの結果ではなく、むしろ大人による難解な言葉の羅列や一つ一つの言葉の勢いに押された情緒的なものではなかったのかとも考えられます。これでは、相互理解によるお互いの気持ちを理解した上での結論とは言い難くなるのは仕方のないところでしょう。子どもを育てるにおいて何を大切にするかということが明確にされ、一本化された対応ができるとすばらしいと思います。