西蒲応援団 ♪名鉄西尾・蒲郡線の存続を願って
名鉄の西尾・蒲郡線が存廃の危機に立たされています。「採算が合わないから廃止したい」、経営側の最もな意見です。逆に、赤字が見込まれているのに続けることは、経営者の判断としては如何なものかと、糾弾されかねません。
政治的な意図も、これによって得る利益からも全く関係のない立場ですが、純粋に、車を使って自由に移動できない弱者の立場に立つと無視はできない問題かな、むしろ、これから、可愛い子ども達が成長していくに当たり、電車を使って様々なところに移動して、その見聞を広めていく、たくさんの人とかかわりを持ち、人間的に成長していくための経験を支える足として大変大切であると考えます。親に車で送ってもらうのではなく、自分で路線や時刻表を調べて計画を立てることも大事なことです。
ただ単に足という交通手段の意味以上にその存在意義は高いものと思われます。西尾・蒲郡線の存続を訴えるためにさまざまなイベントが開催されていますが、その一環として、「子ども達に赤い電車を描いてほしい!」という依頼が、某大学の先生からありました。
こういう社会問題に触れ、子ども達なりに考えることも大変教育的意義は高いと考え、お受けすることになりました。園舎の2階からも見ることはできますが、間近で見たほうが良くわかるだろうと、幼稚園バスに乗って、米津川の鉄橋まで見に行きました。「電車が近づく音がします。「来たッ」最初に見た電車は、残念ながら銀色の電車でした。それでも、子ども達は、待ちに待った電車に出会えて、よろこびを押さえきれず、大きな声で叫びながら手を振ります。電車が通過するまで、必死に手を振り声を上げました。
「あーぁ、行っちゃった」「やった!赤い電車だ」「今度は、あっちから来るんじゃない?」「早く来ないかなぁ」「来た来た!ガタコンガタコン」と鉄橋を鳴らしながら電車がやってきます。「もっと近くで見たい」「おっとっと。土手は危ないよ」「腰を下ろせば、大丈夫」「やった!近くで見えた」「鉄橋の下って、こんなふうになってるんだ」「電車が通ると、すごい音がするね」園に帰ってから、米津で見て感じた電車を思い出しながら、自分の思いも載せながら絵を描きました。いろんな絵があります。子ども達それぞれが感じた感じ方が異なるので、様々な絵ができることも当然です。だからこそ、「絵」と言えますね。もし、現物とそっくりのものを描けることが良いとするのなら写真を撮れば済みますものね。あるいは、カタログを手に入れれば終わりです。
しかし、絵はそんなものではありませんね。その人なりの感性で気持ちを表すものですから、異なった表現になるのは当たり前ですね。ピカソはピカソなりの、ゴッホはゴッホなりの、シャガールはシャガールなりの感性と表現方法で事物や気持ちを表してきました。スペインの内戦中、フランコ将軍を支持するナチスドイツの無差別空爆により破壊され多くの尊い人命が犠牲なった人民戦線の拠点ゲルニカでのできごとを知り、怒りに任せて描きあげたピカソの「ゲルニカ」は、あまりにも有名です。山下清画伯の貼り絵も、画伯なりの感受性に基づく、自らの心の表現が、見る者の心をうちました。写真でしか表せないものがあり、絵でしか表せないものがあるのでしょうね。私には芸術的素養もありませんし、美術に対する造詣も深くはありませんが、子ども達の感性を大切に育み、その人がその人でなければならないものを生かせるよう見守ってあげたいものと考えます。
さて、子ども達がそれぞれに感じて表現してくれた電車の「絵」から、抜粋して見てみましょう。
「夕焼けの中を帰っていく電車」です。乗っているお客さんたちは、家路への途中です。仕事に電車で行っているお父さんを思って描いたのでしょうか?
迫力満点の電車ですね。大きな音で鉄橋を渡る電車のすごさを目と耳で感じたのでしょうね。最後は、かわいい絵です。虫や動物達が、子どもが感じたことを代弁しています。いずれも、大人には、なかなか描けないものですね。すてきですね。こんな感性を大切に育んであげたいものですね。写実的であることをよしとする大人の価値観に染まらないように美しい心を育ててあげたいものだと思います。この純粋な心が生きていく宝となり、幸せな人生につながっていくことを願っています。