「人として生きる」を考えましょう

人は皆、自分の人生を生きています。それゆえ、困難があればそれを克服すべく努力をします。そして、人に必要とされたり、人を助けてあげることによって、自分が生きている価値を見出し、生きている充実感を味わいながら生きていくことができます。
高度成長期までは、より良い生活のため、誰もが懸命に働き、社会作りを行なってきました。その過程で生きる目的が変化してきました。人間としてまっとうに生きるという(人に迷惑をかけない、困った時は助け合う等)基本的なあり方が忘れられ、豊かであるとか人より優れているとか目に見える心が喜ぶものを追い求めるようになってしまいました。
そして、人に迷惑をかけない、困った時は助け合うといった人間的な心が忘れ去られ、自分さえよければという人が増えてしまい、結果として今のこの社会構造が出来上がってしまいました。立派に仕事をし、社会貢献をしている人も少なくありません。豊かになる、有名になるということが悪いことではなくて、その前に身につけなければならない人としての心が忘れられているのではないかと心配になります。


先日の秋葉原の事件では、犯人の裏側にまさしく人間としての心が育っていないことを感じさせます。人を殺してはいけないということは頭では分かっていますが、心ではわかっていなかったようですね。
人間をコントロールしているのは、実は頭ではなくて心なのです。表面的には頭が理性が人をコントロールしているように見えますが、本当は深層心理であるといったようなもの、あるいは原初的な本能といったものが、言動の裏側で大きな力を振るっています。
これは、脳の発達から見れば明らかなのですが、言語を用い論理的にものごとを考え、社会の中で生活している私たちにとって、本能的な欲求であったり、心の源泉が大切であるということは、普段意識されないがゆえについつい見落としがちになってしまいます。
でも、最近起こる理不尽な事件(相手は誰でも良かった、自分の欲望を満足させるため云々)の元は、乳幼児期からの育ちにおいて、十分に心が耕されていない、温かな人とのかかわりの中で人と共にあることを喜ぶ体験があまりにも少なすぎたからではないでしょうか。
人が変わったというよりも、社会が、育つ環境が変わったがゆえに人が変わってきています。進化であったり発達であったりするものは、実は環境に適応することでなされている部分が多いのです。
ということは、逆に、子どものすこやかな育ちに必要な環境とは一体どういうものなのかを考え子育てするようにすれば良いともいえます。そこで大切なことは、大人にとってよい子どもであるということよりも、子どもが子どもらしく自分らしく生きる場や時間が確保されているかということです。
自分が自分を生きる。そんな当たり前のことがなされていない現実。大人にとっていい子であることを求められ強いられ、自分に目覚めたとき、どうしようもない自分を発見し絶望感にさいなまれ、それをうまく昇華する方法を見つけることができずに、大きな過ちを犯してしまう。そんな構図が最近の事件から見て取れます。
秋葉原事件の加藤容疑者の記述です。
『親の書いた作文で賞をとり、
 親の描いた絵で賞をとり、
 勉強は、親からやらされていたので完璧、』
厳しい父親であったそうです。加藤容疑者は「母親に暴力を振るっていたようです。また、新聞の記事から援用させていただきます。
『その後、加藤容疑者の実家では、弟も自宅を離れていった。昨秋には、母親 が家を出て、父親が1人で生活するようになった。自宅は荒れた植木が目立 つようになった。雑草が茂る庭を見て、近所では心配する声が上がってい  た。
 父親は事件発覚後、車で自宅を出たまま、戻ってきていないという。主の帰 宅を待つように、自宅の玄関には、女の子の人形が一体、壁に飾られてい  た。』
勉強するとはどういうことなのか、考える力とはどこから育つのか、人の感性はどのように磨かれていくのか、そして人間とは何か、人間らしくあるということはどういうことなのか、生きていくとはどういうことなのか
そんなことを考える余裕がもうこの社会にはなくなってしまったのでしょうか?
でも、そういうことを考え、人が幸せに生きることができる社会を構築していかなくては、ますます理不尽で混沌とした社会になってしまいます。まずは、教育現場から構築しなおしていってほしいものだと考えます(自戒を込めて)。