最近の若者は?

いつの時代にも、若者は「若いもんは・・・」なんて言われて、この先大丈夫かと心配されています。分別のある大人から見ると、若者の行動は危なっかしくて、あるいは傍若無人であるかのように見えることが多いようです。
自分を振り返ってみると、そのように言われても仕方がないとも思われるところもありましたし、20年、30年経っても、基本的には自分はあまり変わっていないように思えます。
子ども達や若い人たちの姿を見ていると、劣っているとか、考え方がよくないというよりも、それまでの人生経験の幅が狭いので、大所高所に立ったものの見方が十分でないということだけなのかもしれません。
生まれつきの人間の優劣がないことから考えると、やはり成長過程でのさまざまな経験がその人となりを作り上げています。
心の発達のためには、楽しいや嬉しいといった自分にとって歓迎すべき経験と共に、苦しい、悲しいといった自分にとってはマイナス(できればないほうが良いと思うもの)の感情も必要です。偏った経験は、心の幅を広げることができません。
最近の若者を見て、感じたことがありましたのでお伝えします。皆さんも一緒に考えていただけるとありがたく思います。


名古屋で8月の終わりには「どまつり」があります。たまたま所用で名古屋に出かけたときのことです。
たくさんの連(チーム)が、準備のために行ったり来たりしています。ある女の子のチームのメンバーが2~3人前から歩いてきました。そして、こちらからは、別のチームの女の子たちが歩いてきました。両方とも20代前半といったところでしょうか。
すれ違うときに、どちらからともなく「お疲れ様です!」と、元気な挨拶が交わされました。知り合いがいたのかもしれませんが、そこここで、そのような風景を見ることができたということは、知人であるかないかに関わらず、挨拶を交わしているようです。
同じ「どまつり」に参加する仲間として、相手の存在を認めているのでしょうか。そこには、自分さえよければいいといった気持ちは感じられませんでした。逆に、ライバルかもしれないけれどそれぞれ頑張りましょうという思いが感じ取られたのは、その若者たちを美化しすぎでしょうか。
もう一つ。
地下鉄に乗るために、階段を降りました。すると、そこにはあるチームが待機していました。地下構内の隅にかたまっていて、通行の邪魔になるような行動をしている人はいませんでした。また、声高にしゃべったり騒いでいる様子もありませんでした。
そして、地下鉄に乗るために彼らは動き出しました。先頭の人が小走りに駆けてゆくと、後の人たちも小走りにスムーズに移動しています。だらだら歩いている人は誰もいません。
ところが、彼らは私が改札に向かう道をふさぐ形で移動していたのです。「しばらく、待つか」と思ったその時、若い女性が「はい、ここでストップ」と移動の列を中断させ、私を通してくれました。私は「ありがとう」と言って通り過ぎました。その後、何事もなかったかのように彼らはまた、スムーズに移動して行きました。
彼らは、私と反対行きの電車に乗りました。見ていますと、席が空いているのにみんな立っているのです。
これだけのことから、いまどきの若者がと論じられるわけではありませんが、少なくとも、大変気持ちのよいすばらしい若者もたくさんいるということです。きっと、彼らは事前の話し合いの中で、自分たちの立ち居振る舞いについて議論を重ねたに違いありません。
若者や子どもは、困った者ではなく、TPOに応じた言動をうまくできないだけなのかもしれません。それは、知らないからです。だからこそ、家庭で、あるいは教育現場で、私たちはこうあって欲しい姿を伝え、共にあることを喜びながら一緒に生きてゆくのです。一つ一つ丁寧に伝え、できたことは褒めてやるという接し方が大事なのでしょう。
今、良いとか悪いとか、できるとかできないとかではなくて、このようになっていきたい、こうありたいと考える力を育てることが大切だと感じています。
ちなみに、私が見たそのどまつりのチームが着ているTシャツの背中には、「百の笑いと 一つの結束」と書いてありました。
皆様の、ご意見をいただければありがたく存じます。