命は誰のものか?

私たちは、自分の命を生きています。自分の体として意識している自分でコントロール可能な肉体と、今、自分を自分として認識する心を持って生きています。
ところが、私たちは別の体や心を持った人たちと心を通わせ、共にあることに喜びを感じながら生きています。
親であれば、子どもが転べば思わず「痛いっ!」と、転んでいない私が叫んでしまいます。子どもが嬉しそうな顔をしていると、「何か、良いことがあったのね!」と、私までもが心が嬉しくなってしまいます。
子どもの心は子どものものと頭ではわかっているつもりで、実はいざとなれば、さも自分のものであるかのように心配したり喜んだりしています。
そう考えると、いったい自分の命は誰のものなのでしょうか?自分のものでありながら、人のものでもある、そんな考えが周りとの関係をよくし、お互いにより幸せになっていくためには必要であるように思えます。


昨日の中日新聞に、夜回り先生、水谷修先生の文章が載りました。自暴自棄になっている子どもに、自分の命は誰のものかを問うたそうです。その子どもが介護の仕事を通じ、感謝されたとき、初めて自分の命の尊さに気づきました。
私のものでない、相手の人にとって私の命が大切だと思ってもらえるとき、人間は大きな自信と生きる意欲が沸いてくるのではないでしょうか。
誰のためでもない、自分のためと必死に何かに打ち込む姿で、多くの人に感動を与えることもあります。この社会において、人の存在意義を認め、逆に自分の命の尊さを気づかせてくれる。経済的に支えあっている事はもちろんのこと、精神的にも私たちは支えあうことで強く逞しく生きていけるのではないでしょうか。
教育要領では、「生きる力」「逞しく自分の人生を創造する力」を育てることがうたわれていますが、まさしくこの幼児期にこそその芽を育てなければならず、育つための経験を積む時期であると言えることでしょう。