ゆっくり生きるか? 早く生きるか?

中日新聞に、夜回り先生で有名な水谷修先生の「明日を求めて・・・」が連載されています(2週間で1回ほど)。毎回読ませていただくごとに、教育のことはもちろん、自分の生き様に関しても考えさせられます。
今日の内容は、タイトルの通り「ゆっくり生きるか? 早く生きるか?」ということだと思います。内容は、次の通りでした。
先生は、若い頃山登りが好きだった。仲間たちと競って、速く登ることができたことを自慢し合っていた。ある日、1人でいつものように駆け足のように登山を済まし、帰りに土産物屋できのこを買おうとして、その後主人に言われたそうです。
ゆっくり歩けば、いろんな物が見えるし、楽しむことができる、と。それから先生の山登りはそのスタイルを変えたそうです。もちろん、ゆっくりと自分の周りにあるものを楽しみながら。


さまざまな価値観がありますが、生きるってどういうことかという問題は人間が存在する限り、永遠のテーマです。どうして、なぜ人間が生まれてきたか出現してきたか分からないのに、その存在意義を問うことはとても難しいことです。
でも、生きている私たちには、どのように生きるか考える権利があります。人に迷惑をかけない限り、人の人生はその人の考えにゆだねられています。生まれてきてから私たちは、死へのゴールに向かって走り出します。その走り方には様々な方法があります。
水谷先生は、こう言います。そんなに急いで走らなくてもいいじゃないか。地位や名誉、金銭を追い求めて血眼になって死へのゴールを目指すことが生きるということなのかと、問いかけます。さらに、ゆっくり走れば様々なものが見えてきて、様々なことを楽しめる、と。
生きる意義や目的は、人さまざまであることは分かります。でも、私たちの生きている姿が、子ども達の育ちに反映されている事は確かです。小さな家族という単位で起こるさまざまな軋轢や問題が集積されて、大きな社会問題となって浮かび上がってきます。
即物的に利益を追い求めて生きてきた人類は、温暖化という自然からのしっぺ返しにその存亡にも黄色信号が点滅し始めました。私たちは、自然の中で自然から共存する形で生まれてきました。
言葉を話すようになり、文字を発明しその持っている能力で、この地球で最も繁栄するようになりました。しかし、それがために自分の首を絞めているところもあります。
子ども達を見ていると心が洗われます。美しいものを美しいと感じ、楽しいことはやりたいし、やりたくないことはやりたくない。でも、今生きている事が楽しくて仕方がない。いたずらもするけれど、時々見せる優しさに目頭を熱くさせられます。
今の社会を作り上げたのは大人たちです。子どもはいつの時代も子どもらしく生きています。子どもの瞳を、子どもらしくキラキラ輝かせておいてあげることが、彼らが素敵な社会を作り上げていく力になっていくのではないかと考えます。今、私たち大人が考えるべきことはたくさんあります。本当に子どもの幸せのためには、何をすればよいのか、目先のことではなくて人生という長いスパンで教育を考えたときどうあるべきか、皆さんと考えていけたら嬉しく思います。