躾について考える2 ♪

先回、躾のことに触れましたので、もう少し深く考えてみたいと思います。
「躾」って、いったい何のことでしょうか?
ネットのウィキペディアには、次のように掲載されていました。
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しつけ(躾・仕付けまたは仕付)とは、人間または家畜の子供または大人が、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。ドイツ語では、しつけのことを、die Zuchtというが、これは人に限らず動物(家畜)の調教、訓練の意味もあり日本語のしつけと同じである。
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語源は仏教の習慣性を意味する「じっけ(習気)」が変化してできたとされています。
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このようなことから、また、日本が儒教を基本とする道徳的国家社会であったことや、ムラ社会(ムラはちぶ)などからくる「恥」の文化の背景を考えざるを得ません。
ということで、人と同じということで安心してしまう国民性でした。逆に、人と違うことが好奇の目で見られ、差別の対象になりました。現代の子ども達のいじめの原因の一つでもあるようです。人と違うことを尊ぶ文化はまだまだ浸透発展はしていません。
進化は、人と違うところから始まります。人と違うことを認め合い、支え合い、助け合える社会を構築していきたいものです。
「個性」を大切にする、といろんな教育施設で言われてますが、本当に大切にされているのでしょうか、また、集団と個のそれぞれの兼ね合いはうまくいっているのでしょうか?
集団を維持するために規律があります。(「規律」は集団や機構の秩序を維持する決まり)学校であれば校則であったり、家庭では家訓といったようなもの、あるいは親の教育方針など、成文化されているか否かに関わらず、その集団を維持していくために必要な掟があります。その掟を守らない人は、つまり集団の平穏安定を乱す人は排除されます。ということは、その集団に属していたいのであれば、そこの掟を守るということが最低限必要です。その掟を承服できない場合は、その集団から出るしかないということになります。
さて、そこで問題です。日本の場合は、子どもが学校教育を受けることが義務付けられており、ほとんど強制的に指定された学校に通わざるを得ません。そうすると、本人の希望であるかどうかに関係なくその掟、校則を守らなくてはいけなくなります。自分が選んだ集団ならば、属していたいのであれば、喜んで掟を守ろうとするし、逆に掟を破るものを咎めたり、注意もすることでしょう。
ところが、好きでもないところに半ば強制的に入れられ、掟を守れ、と言われても、「なんだかなぁ~」という子どもの思いを頭ごなしに否定することはできません。でも、日本に生まれたからには、日本のしきたり、掟の中でしか生きていけませんし、人間であるためには、人間としての最低限のモラルを有し、人間社会がより発展するための貢献ができることでよりよく適応して生きていけます。
そんなことから、私たち親や教育関係者は、いわゆるきちんと生きる(まじめ、目上の人の言うことを聞く、人に迷惑をかけない)ということに対して、疑いもなく子どもに強制し、従わせたりしています。それは、子ども達が、この日本の社会でよりよく適応し、それがゆえに幸せを実感できる人生を送ることができるという暗黙の了解めいた価値観に基づいています。
 しかもそれは、長い年月をかけて作り上げられてきた文化や経験則の集大成でありますから、これを子どもに分かるように説明しなさいと言われても、「昔からそうだった」とか「しきたりだ」とか言えず、納得できる答えを用意できないことも多く、余計に子どもは反発してしまうのかもしれませんね。
問題は、躾をすることが良いとか悪いとかではなくて、その方法がいかにあるべきかというところでしょうか。日本中の教育保育施設で、日本人としてうまく適応して生きていけるようにということを全く考えずに教育を行っているところはないと思います。ただ、その方法に、身に付けさせる方法に、さまざまな考えがあり、さまざまな子どもが育っていっていることでしょう。
言葉や気持ちの通じにくい家畜に対して、体罰やご褒美と言った「アメとムチ」を使った躾は、心理学上の実験や、動物の調教によく使われています。
ただ私は、人間の子どもは動物と一緒ではなく、いつかその心が通じ合い、ともに支え合いより良く生きる仲間に育つに違いないという思いから、テマヒマかかりますが、丁寧に子どもの心に寄り添って、躾を身に付けてもらえるよう願うものであります。あんなにかわいい、素敵な子ども達に、大きな声でどなったり、おどしたり、ましてや体罰を加えてなんてことは、無理です。表面的に子どもは怖いので言うことを聞くようになりますが、それは、規律が内在化されて本当の意味で躾けられた状態ではなく、恐怖から逃れるためにとっている言動であり、その恐怖を感じなくてもいいところでは、躾けは雲散霧消してしまいます。(みんなでやれば怖くない、とか、誰も見ていないから大丈夫など)
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