年度末に想う ☆

最近、若者の凶悪な犯罪がちょくちょく報道されています。人を殺してみたかった、誰でも良かった、そんな理由で、何も悪くないむしろ善良な人々の命が奪われ、その家族の人々を苦しみのどん底に陥れています。
この問題に対し、様々な論調が展開されています。曰く、その根底には貧困の問題がある。幼い頃から命が大切なことを教え込みなさい。刑法の厳罰化を図るべきであり、対象年齢も引き下げるべきである、云々・・。
どれもこれも、それなりに効果はあるものでしょうが、もっと根源的な問題は何かということを考えていかないと、人々が安心して暮らせる社会を作っていくことは難しいのではないのでしょうか。
力で悪を抑え込む方法も時には必要でしょうが、一人一人の人間が、素敵な社会を作り上げようとする意欲、日々充実した生活を作り上げようとする気持ちを育てることが大切であると思われます。


力で悪を抑え込むことは、表面的には悪(他人に対する迷惑)がなくなり、平穏な状態であるかのように見えます。でもそれは、見えるだけであることは良く考えてみれば自明のことですね。表面的に悪が見えなくなったとしても、根本的に悪の心がなくなったとは言えないのです。
妬みや嫉み、恨み、愚痴や不平不満、自分の思い通りにならないことに対して、その解決の矛先を外に向けてしまうことによって、人は人の心をいとも簡単に傷つけてしまいます。自分の心の平穏を守るために、人をさげすんだり見下したりもします。
でも、そのようなあり方では、本当には自分を幸せに導くことはできないし、問題を解決する方策は、何も出てきません。そんなことは、分かってはいるのだけれど、でも、だったらどうしたらよいのだろうか。一歩進めて考えてみることが大切ですね。
幼児教育の現場では、子供同士のトラブルは日常茶飯事です。それは、幼児がどうしようもない悪の存在だからではなくて、何も知らないがゆえに、自ら行動を起こして、その経験によりものごとを理解していっている過程にあるからです。
トラブルを推奨するわけではありませんが、うまくやる方法がわからないために相手に嫌な思いをさせてしまうことが大半です。何もないのに、ワザと、相手に嫌な思いをさせてやろうとか、意地悪をしてやろうという子どもはいません。20数年、子どもと生活を共にしてきましたが、ただの一人もいませんでした。人に迷惑をかけてしまう行為の裏側には、必ず、自分ではどうしようもできない理由が潜んでいたのです。
友達を叩いてしまった・・・バカといったから。
ともだちをつねった・・・・「いっしょにあそぼ」と言ったのに「いやだ」と言った。
取っ組み合いのけんかになった・・・貸してと言ったのに貸してくれない。
友だちの髪飾りをとった・・・きれいだったから欲しかった。
云々・・。
ほんの一例ですが、一緒にいる友達との間で起こるトラブルが多いものです。トラブルになったときは、お互いにお互いを嫌いと言ったりしますが、もともとは気が合って一緒にいた友達ですから、他の子ども達とよりは心と心が通じ合っていますから、しばらくたつとまた元通りに仲良く遊んでいる事はよく見られます。
このようなトラブルがあったときこそ、保育者の力量が試されるときです。人のものをとってはダメとか、友達には優しくしなさいと言うだけでは、何を育てたいか、気づかせたいか、子どもの心の発達の援助があまり見えてきません。
子どもの心の中に、何が起こっていてどのような気持ちであるのか。では、どのような経験であり、ことばがけ(その当事者の子どもが理解できるレベルのもの)が必要なのかを判断して、よりよい人間関係を作るための力を育成する援助とするのかが考えられなければなりません。
日常生活の中で、共に保育者と子ども達が生活を作り上げる過程で、一人一人の子どもの心のあり方を理解し、常に一人一人の子どもと心と心が通うコミュニケーションが積み上げられていないと難しいことです。
伝達では、子どもの心に響かないのです。心と心が響き合い、イメージの世界で交流を図ることにより、心は通じ合うことができます。人を不幸にしてしまう事件の報道を見聞きするたびに、もっと、分かり合えるコミュニケーションをする能力を小さい頃から養っておけば、愛し合いされる関係の中から自分の命の大切さを感じ、相手に対する思いやりの心を育てておいてやったならと思わずにはいられません。
子どもの育ちに限らず、私たち大人も、もっともっとお互いを分かり合えるコミュニケーションの場を増やし、深く分かり合える努力をする必要があるのではと考えられます。悪人はいない。ただ、思いや価値観が異なるだけ。話し合い、理解しあうことがお互いをより幸せに導く。そう信じて、これからも、微力ながら努力していきたいと思います。
今後とも、皆様、よろしくお導きくださるようお願い申しあげます。