いのちのリレー
私たちは、親からいただいた命を生きています。親は、その親(祖父母)からいただいた命を生きています。
子どもは、お父さんに似ているとかお母さんに似ていると言われながら育ちます。かといって、子どもには親のありがたみは分かりますが、子どもにとっては似ているかどうかはどうでもよくて、言われるたびに自分は自分で親のものではないと密かに思っていたりするのです。
さて、せっかくいただいた自分の命を粗末に扱ったり、人の命なのに傷つけたり奪ってしまう人々がいます。その親御さん方は、やっぱりそうだったのかというとそうではなくて、ごく普通のまじめな方々だったりするほうが多いように感じられます。
では、どうしてそんなことが、きちんとしていたと思われる家庭で育ったのに問題と思われる行動を引き起こしてしまう子どもに育ったのかということを考えていかなければなりません。
肉体的な特徴、顔の作りや骨格などは遺伝子にプログラムされているので、親とよく似た形質を備えて生まれ育つのは誰でも容易に想像できます。ところが、全く親と同じように育つかというとそうではなくて、近年は親よりも大きい子どもが育つことが多いようです。(悔しいことに今の子は足が長い)顔にしても、瓜二つというのは少ないようです。
自然のものには、必ず「ゆれ」があり、全く同じものが生まれることは確率的にはまれなことです。遺伝の影響もありますが、肉体的特長は、生後の運動や食物の質や量によっても異なってきます。つまり、外的環境に影響されて体も育つということです。
心の発達が、自分と外界との関わり、相互作用でなされることから、心はほとんど環境で決まってしまうと言っても過言ではないかもしれません。もっとも多くの時間、より深く接する親の影響を強く受けるのは当然のことです。
しかし、同じような親でも全く違った育ちを子どもが見せることがあります。それは、それまでに育っている子どもの心がどうかによります。自己肯定感がしっかりと育っている子どもは、多少の失敗や過ちにはびくともしません。しかし、十分に自己肯定感が育っていないと、周りの目を意識しすぎたり、失敗や過ちを自分以外のせいにしたり認めたりしないので、成功への1ステップにはなりにくいものです。
人間は生きていると、失敗や過ちをよく起こします。それは、失敗や過ちを犯そうとしたのではなく、その時点ではそれが最良だと考えられてことでも、実はよくよく考えると人に迷惑をかけることであったり、自分にとってもよくない結果を招くことであったりするだけです。
そのような経験をたくさん積み重ねるところから、的確な判断力は育ちます。どこまでが良くて、どこからが悪いことかというのは、その境目辺りのことをたくさん経験し、どうしてなのかということを一つ一つ丁寧に考えてゆくと、だんだんポリシーがしっかりしてきて、臨機応変に考えることができるようになります。
尊い命をリレーしていくときに、きちんと心の育ちがフォローされていないことが残念でなりません。この世に生まれてきた赤ちゃんはどの子もどの子もすばらしい存在なのです。私たちの命を引き継ぎ、さらによりよい次世代にバトンタッチしていく尊い存在です。
特に乳幼児期には、体の発達と共に、いやそれ以上に心の育ちを考えた保育や子育てが必要だと考えます。